昭和五十六年二月二日 朝の御理解
御理解六十六節
人間は勝手なものである如何なる知恵者も徳者も生まれる説きには日柄も何も云わずに出て来て居りながら途中ばかり日柄が吉いの凶いのと云うて死ねる時には日柄も何も云わずに馳って去ぬる
たしかに二、三日前もこゝを頂きましたよね。六十二節今日は六十六節という所を聞いて頂こうと思います。こゝは六というのを徳と云われますから、徳に十する徳、いやが上にも徳を積んでいく徳を受けていく。金光様の御信心はぎりぎりこゝに至るわけなんです。ですからいよいよお徳を受けていく事の為の信心修業を体得させて貰うて、しかも先日のお話じあないけど或る教会の総代さんが三十年間それこそ何回も自殺まで計ろうとされる大へんな苦しい中を通っておかげを頂いて此の頃御普請をされてというあのお話しをしましたようにね、成る程それは修業はありましよう。それを苦労といや苦労ですけれども合楽ではそれを修業として受けてその修業のこなし方とでも申しませうか、それが身についてくる、いわゆる信心は〓しうて有難うしてそして愉快にまでなれるんだというねそういう信心を合楽では説くわけなんです。
そりあもう本当に何十年間を貫き通しておかげを受けられたというのですからまあ本当にまあいうならば熱心な篤心な信心をなさる一つの美談のようなふうにも思へますけれども、もしそれだけの修業をなさって合楽で合楽理念に基づいてであったらそれこそ家が立派に出けるという時にはすでにそういうすばらしいお徳を受けておられるのじあないからいうふうに思ふのです。おかげに例ばこの人はおかげの受けられないタイプいくら参ってもおかげの受けられない又はおかげの受けられるタイプ、又はお徳の受けられるタイプ。タイプというて昨日の久富繁雄先生の話しじあないけれどもね、アルカリ性、おかげの受けやすいタイプの人の、地にも地力というのがあって地の地からというものがあって、何を蒔いてもすぐによく生える土地を何を蒔いてもまあ生えないアルカリ性の強い、いや酸性の強い土壌というのがあるのだと。してみるとならおかげの頂きやすい人もありがたいけれども、おかげの受けられない受けにくい人はもう本当に受けられないかと云うと私はおかげの受けにくい酸性の人こそお徳を受けるタイプだと思うですね。ですからそれをいかにすればなら酸性がアルカリ性になるかという。それは夕べの日時祭にも申しましたように石灰を入れるという事である。何を蒔いてもよく育つという事になってくる。石灰というのは石の灰と書いてある。
だから石というのは心の事。あの人は意志が強いとこう申しませう。意志、心。灰というのはこゝでは直と合楽教会でたく山の都が助かりたく山のおかげを皆さんが預かれるようになられた。まあ合楽にもまあ例ば家、蔵、財産があるとするならばそれは私大坪総一郎のハイの一字から生まれたんだとよく申しますね。私のハイの中から生まれたのだと、ハイというのは天地金乃神様の前にまあいうならば泣く泣くでも辛抱させてもらい、泣く泣くでもいやと云えずにハイと言って来た事。いうならば、素直にそれを受けてきた事が今日の合楽のまあ御ヒレイだと。
昨日なんかはまあ今まででは最高でしょうが三千八百名からのお取次。
昨日は朝から私ももう兎に角四つのお結介でずうっとお届けのし通しでしちたがね、三千八百二十七名お取次させて頂いた。もう四人の者がずうっと私が四時半、五時頃゛したがあちらではまあだ六時頃まで位うおそらくお届けがかゝったじあろう。それに引き続いてお月次祭でしよう、昨日は又お月次と日曜でという事もあったでしようが、そういうたく山な人が合楽へ合楽へとそれこそ昨日はいうならば久留米の方達も久留米市長はじめたく山の人が合楽に参ってきております。そういうのがもう私の神様の前にハイの一字が今日のその御比礼になっておるんだという事になるといよいよこれはいよいよ素直な心、なる程、素直心の一つにて雲の上まで上る道があると教えられるが確かにそうだという一つ確信を持って限りなく一つ信心を進めていかなきゃなりません。はあそうじあろばってん先生はそう云うなさるけれどもといったようなものがね、もう先生がそうおっしやった、それですきっとこう頂ける、もう左右はいわん。自分の都合はいわん。というような生き方をしていく中にどんな酸性の人でもアルカリ性になってくるというのです。素直の一つでどういうおかげの受けうれないタイプのの人でもおかげの受けうけるタイプ、いやおかげじあない、お徳の受けられるタイプに変っていく事が出来るという事です。
昨日は宮崎の或る教会の若奥さんという方から宮崎の信者さんが厚いぶ厚い手紙を預かってまいりました。先達てそこの親奥さんと二人でお参りになったそうですけれども、私が丁度不在の時でお会いが出来なかった。それで此の頃こうして芽がうすいですから昨日佐田先生に読んでもらいました。もう本当に聞けば聞く程大変なそのまあ普通で云うなら義理人情のしがらみといったような教会にそういう問題がたく山あるわけなんです。もうそれをどう受けて行ったらよいか合楽では、合楽の親先生にこゝをお伺いしたらどう答えて下さるだろうかという事がその難儀な問題がいっぱいであった。けれど私は聞かせて頂いとってこれをもし合楽理念で合楽で稽古しとる人がしたら、すばらしいお徳を受けるだろう。しかもなかなか何んというですかその劇的なんです。聞いておってからもう本当に面白いです。小説を読むようです。
それを私聞かせて頂いとりましたらあの舞踊に藤娘という舞踊がありますよね皆さん御承知でしよう。藤の花をこう持って踊るいわゆるこれは長唄を舞踊化したものです。まあ踊がすきな人、初めちょっとした手おどり位からだんだん長唄ものでもこなせるように好きになればそれをまあ稽古するわけですけれども、私が御神願に拝ませて頂く藤娘はあのこう笠を被ってますね、そしてあのまあおどりの中で何回もないというでしようか、あの着物をさあっと変えるですね、いろいろな赤い着物から白い着物へとかずうっと変えていきます。それから小道具も次々と持ちかえてますよね。太鼓をたゝいたりあのいろんな笠を使ったりいろいろなそのそうする場面があってしかもまあ後の長唄にあわせてねその皆さんがそういう舞踊を見られて見ておってもうっとりするようなおどりなんです。それにこゝでは笠は持つごとなか、こゝでは太鼓をうたなんばってんうとごとなか、着物もせかりしかけんで何べんでん変えたりしゆうごたなかといったような態度で踊りをおどっておるという場面を、その手紙を聞かせて頂きながら頂いたんです。
皆さんお分かりになるでしよう。お徳を受けたい、それもいうならば、力を受けるといっても、百斤の物が持てる力も千斤も万斤も持てれる力、限りない力を受けたい限りないお徳を受けたい。それこそ六十六節である。二、三日前野こゝの六十六節の時には、人間は土より出でて土に還るのだと、途中ばかりを日柄がよいの悪いのというて、人間勝手な生き方をするけれども本当の生き方というのは土より出でて土に還るのであるから、その道中とても土の心でいかなればならない。そうしていわゆる地力を頂いて土地の力を頂いていかなければならない。何を蒔いても有難いという花が咲き、有難いという身が稔るような頂き方をしなければならんというのが二、三日前のたしか六十六節だったですね。
ですから踊りが好きで踊りを習うというなればやっぱりその或る御信者さんから今度初舞の会という案内を受けたんですけれど藤間のお師匠さんばっかりの会の案内を受けましたがね、こういうのを一つ一つ上げていく楽しみそして藤間の名前をいうならば人口教えてよい程の力も頂く、はあ又こげな難かしか踊りに取組まにやんなんてんとは思いやせんと思う。もう出来るだけ、いうなら人が難かしいというような難しい踊りも踊りこなせる稽古をする事もリズムに乗ってかする事ですから楽しい、これは不思議ですね、もうこの踊りを踊るという事は普通体が動かんでもですね、いうならばまあそこにリズムがあり、いうなら合方があってその鳴物がなり出したら体は楽に動いてくるんです。不思議です。
もうそんかはり踊り終わったら途端に体が動かんごとなる。けれどもリズムが鳴ったら又軽快に体が動くリズムというものはすばらしいものです。私共はだんだん天地が奏でて下さるリズムを聞きされるようになり、リズムにのってなら藤娘なら、藤娘を覚える。
そしてそげんいろいろ小道具はあっかはん、せからしかといったような事では、もう踊りを覚えるいう事にはなりません。もうしようことなしに稽古しとる事になります。本気で好きになり、本気で事毎の問題を素直な心で受けていく土の心で受けていく、はあ受けにくい、自分が酸性であるしるしを分らせてもろうていよいよ素直な信心いうなら石灰をまいていくような心で日々過させて頂いたらおきてくるその問題の一つ二つがすばらしいお徳を受けるいうならば稽古の材料という事になる、稽古の材料という時に私はいよいよ有難い楽しい愉快になってくる。そこには難儀はない、一切が神愛という事になってまいります。
もうお徳はこれだけでよいという事はありません。もう限りないお徳を受けていきたい。六に十する所の六。受けた上にもいうなればお徳を受けて、為には私共がねそれはいや、これは嫌いというような事であってはならない、自分の目の前におきてくる一切を稽古の材料だと頂いてそれをこなしていっていく中にそれこそ藤間の名前も頂けるようになるのじあないでせうか。人に教えられるだけなそして自分も見る者もうっとりならば、自分も舞うておる踊っておる人自体ももうそれこそ楽しい舞が舞えれるようになるのじあないでしようか。
昨日、その教会の若奥さんの手紙を読ませて頂いて、みんなお徳を受けるもう楽しゅう合掌して受けれるこれを土の心で受けていくという味いを覚えられたらすばらしいお徳を受けられるだろうという事を本人にとっては難儀であり泣きの涙の日々である。又、はがいゝ一日であるそれを有難い勿体ないにしてゆくのが信心。そこにいうなら限りないお徳にふれていく事が出来るという事になるのです。
どうぞ